2009年06月30日

周恩来は北京の解放軍第三○一病院で死亡した

1972年、膀胱癌が発見され、1976年周恩来は北京の解放軍第三○一病院で死亡した[5]。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。周の葬儀には宋慶齢も参列した。
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1972年のニクソン大統領訪中のお膳立てをしたキッシンジャーは、周恩来を「今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物」の一人に数え、「上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた繊細な人物」と評している。

国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。

ノロドム・シハヌークはクメール・ルージュに苦しめられた経験などから反共主義者だったが、周恩来だけは高く評価していた。その理由を尋ねられたシアヌークは「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」と答えている。

『周恩来伝』を書いたジャーナリストのディック・ウィルソンは周恩来をケネディやネルーと比較して、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしている。

また、1954年以来チャーリー・チャップリンとも親交を持ち(ジュネーヴ会議出席の際、1952年からスイス在住であったチャップリンを訪ねている)、彼の作品の一つ「黄金狂時代」の名シーンであるチャーリーが靴を食べる場面を見て、長征の際の苦難を思い出し、懐かしがったと言う。

2009年06月12日

フォーカシング指向心理療法

カウンセリングのエッセンスを抽出する形で生まれたフォーカシングであるが、ジェンドリンはさらにフォーカシングをカウンセリングに還元する方法を体系だてた。それがフォーカシング指向心理療法 (Focusing Oriented Psychotherapy) である。

フォーカシング指向心理療法とは、カウンセリングの過程を、クライエントとカウンセラーの体験過程が導いていく心理療法である。つまり、フォーカシングの技法を使用していても体験過程が動かないカウンセリングはフォーカシング指向心理療法ではなく、フォーカシングの技法を一切使用していなくとも、体験過程がカウンセリングの過程を動かすカウンセリングは、すなわちフォーカシング指向心理療法であるといえる。

ジェンドリンは、フォーカシング指向心理療法においてまず大切なことは、第一にカウンセラーとクライエントの関係性であり、第二に傾聴であり、そして第三にようやくフォーカシングがくるとしており、クライエント自身を無視したような「フォーカシング中心」療法になることを再三、戒めている。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

フォーカシング指向心理療法では、クライエントが自分のフェルト・センスに触れることを援助するために、フォーカシングの技法が用いられることがある。それは、何気なくフェルト・センスが感じられるであろうポイントをセラピストが指し示す応答から、フォーカシングに独特な言い回しをそのまま用いた教示まで使用されることがある。

さらに、フォーカシング指向心理療法では、体験過程を促進するために、他の様々な流派の技法や理論を導入することができる。それらの技法や理論を提案し、それがクライエントの体験過程に響くようであれば、その技法・理論を採用し、響かないようであれば、提案を速やかに撤回して傾聴に戻る。そうすることにより、様々な流派の理論を統合的に使用しながらも、クライエントの自主性を尊重することができるのである。

2009年06月08日

人は何が良い行い(道徳的)で、何が悪い行い(非道徳的)

人は何が良い行い(道徳的)で、何が悪い行い(非道徳的)なのかを判断することができる。道徳心理学者と道徳哲学者の議論の中心の一つは、何が道徳的判断を導いているのかであった。ジャン・ピアジェやローレンス・コールバーグは道徳的判断は理性の産物であり、子供は経験と学習によって理性的判断を発達させると考えた。一方ジェローム・ケーガンのような認識直観主義の心理学者は、道徳的判断が自動的に、瞬時に行われ、理性よりも直観と感情に密着していると仮定した。

直観主義者は、花を見て「赤い」と感じるのと同じように道徳判断を”感じる”のだと主張した。直観的判断のモデルは大まかに次のように分類することができる。

出来事を認識すると、感情が道徳判断を行うエージェントを呼び起こす。デイヴィッド・ヒュームが唱え、近年では神経学者アントニオ・ダマシオや心理学者ジョナサン・ハイトが支持した。
出来事を認識すると、感情と理性が平行して道徳的推論と判断をおこなう。ヒュームとカントの折衷モデルと言え、神経哲学者ジョシュア・グリーンによって支持された。
出来事を認識をすると意識的な解釈が行われ、その解釈が道徳的直観を呼び起こし、感情と理性的推論を生成する。政治学者ジョン・ロールズが唱えマーク・ハウザーが支持している。
道徳的判断は社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。いくつかの感情、例えば同情、罪の意識、怒りは道徳判断の中心をなすが、他の感情も道徳判断に関連している。しかし明確に道徳判断に関連した脳の部位はないようである。道徳判断は、記憶が脳の様々な部位を利用するように、感情や認識などの細かな領域を利用しているようである。
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人間の道徳判断は常に一貫しているわけではない。後述のトロッコ問題では、わずかな状況設定の変化により、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。友人から金を盗む行為は不道徳的だと感じるが、先日その友人から金を盗まれていたのだと聞けば非難は弱まるか消え去る。見知らぬ人への危害よりも、自分自身や知人への危害のほうが強い憤りを呼び起こす。殺人を極めて非道徳的だと考えながら、同時に死刑制度を強く支持する人も少なくない。復讐は道徳的な大義名分を要求する。逆に言えば、大義名分は報復の正当性を人々に納得させる。戦争や部族抗争の研究によれば加害者は必ずと言って良いほど、相手が不当だという憤りを標的に対して持っている[6]。

フィリップ・ジンバルドーは監獄実験で、与えられた仮想的な役割にしたがい看守役の一般人が、囚人役の一般人を虐待することを示した。スタンレー・ミルグラムは服従実験で、一般人の道徳心が権威に屈することを示した。ミルグラムによれば、単に権威によって指示されるだけでなく、相手の顔が見えない、過失が相手側にあると言うような付加的条件の下ではより道徳心が働きにくいようである。また、死を意識させるような文章を読ませられるだけで、その後の道徳判断に影響が出る。見知らぬ人への敵意をかき立てられ、道徳違反者へはより厳しい罰を求めるようになる[7]。これは恐怖管理理論と呼ばれている。

2009年04月24日

北極星

北極星(ほっきょくせい、Pole star )は、天の北極に最も近い輝星を意味する。

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北極星は地球の自転軸を北極側に延長した線上(天の北極)近くに位置しているため地球上から見るとほとんど動かず、北の空の星は北極星の周りを回転しているように見える。そのため北極星は天測航行をする際に正確な測定をするための固定点となり得る。この事実は古くから知られており、アッシリアで発見された後期バビロニア時代の星座絵図にはポラリスが描かれていた。2009年現在、ポラリスは自転軸から1度あまり離れており、直径約2度の小さな円を描いている。

北極星は春分点歳差のために、何千年か毎に別の星に移り変わる。紀元前2000年代にはりゅう座のα星(トゥバン)が天の北極近くにあり、エジプトのピラミッドに北向きに作られた空洞は当初この星に向かっていた。1万2千年後にはこと座のベガが北極星になる(かつて、1万3千年前においては、ベガが北極星であった)。

各時代の北極星
北極星は歳差運動のため、約2万5千年周期で移行し、後述の行程をほぼ同様に繰り返す。ただしそれぞれの恒星の固有運動があるため正確な繰り返しではなく、例えば紀元前58000年頃にはうしかい座のアルクトゥルスが北極星であった。

後述の「過去・現在・未来の北極星」のうち赤緯89度以上に達するのはポラリスとトゥバンであり、最も天の北極に近づくのはトゥバンである。

過去の北極星
ベガ(こと座 α星):紀元前11500年頃
トゥバン(りゅう座 α星):紀元前2800年頃
コカブ(こぐま座 β星):紀元前1100年頃

現在の北極星
ポラリス (こぐま座α星):西暦2100年頃、もっとも天の北極に近づく。

未来の北極星
エライ(ケフェウス座 γ星):西暦4100年頃
アルフィルク(ケフェウス座 β星):西暦5900年頃
アルデラミン(ケフェウス座 α星):西暦7600年頃
デネブ(はくちょう座 α星):西暦10200年頃
はくちょう座 δ星:西暦11600年頃
ベガ(こと座 α星):西暦13700年頃

天の北極の目印となるには暗すぎるが、天の北極に近づく恒星 [編集]
ガーネット・スター(ケフェウス座 μ星)
ケフェウス座 λ星
こと座 R星

2009年04月07日

オルタナティブ・ミュージック

オルタナティブ・ミュージック (alternative music) とは、現在の商業的な音楽や流行音楽とは一線を引き、時代の流れに捕われない普遍的なものを追い求める精神や、前衛的でアンダーグラウンドな精神を持つ音楽シーンのことである。しばしばロックの一ジャンルとして思われがちであるが、厳密にはジャンルではない。「alternative」とは英語で、通常「代わりの」「代用の」という意味であるが、「型にはまらない」という意味もある。本来は音楽的な特徴や性格をあらわす言葉としては使わないのが普通だが、この場合は後者の「型にはまらない」あるいは「既存のポップ・ミュージックの概念を打ち壊す」という意味で「alternative」が使われている。

オルタナティブ・ミュージックとは、ポップ・ミュージックの対義語として使用できるが、時代の流れやある種のメディアなどによって過剰に取り沙汰され、メインストリーム、いわゆる、ポップ・ミュージックになってしまうこともある。その場合、オルタナティブ・ミュージックではないと言える。このどちらか一方が上がっているとき、どちらかは下がっていて、それらが常に入れ替わりながら続いていく関係というのは、美術の概念でいう「現代美術」と「前衛美術」の関係に非常に類似している点がある。
1980年代USオルタナシーン [編集]
アンダーグラウンドな音楽活動は地域や時代を問わず存在したと考えられるが、1980年代の北アメリカ諸都市におけるパンク由来の音楽活動の特徴を、カナダの音楽社会学者ウィル・ストロー (Will Straw) は、「シーン」scene という概念で、従来の(エスニックな)「コミュニティー」に根ざしてアンダーグラウンドにまで連なる(たとえば)ダンス音楽と対比して論じている。[1]1980年代半ばまでに、北アメリカの都市部にはローカルなハードコアパンク・コミュニティが成立し、地域限定のインフラ(レコードリリースやラジオ放送)を利用した音楽活動が行なわれるが、その構成員はそれ以前から存在するレコード・コレクター層(主として男性)と重なり合っており、メインストリーム音楽史的には過去のものとなった音楽的要素をさまざまにミックスすることによって生まれる音楽的な多様性が許容され、必ずしも音楽的共通性を根拠としない「シーン」が成立していった。これらの諸シーンは、あくまでローカルなものでありながらも、特に必然的な地域性なしに各地で同様な経過で発生したため、各バンドは諸都市間を移動する活動によっても類似の聞き手を期待でき、この結果、特に相対的優位性が生じることなく各地で起きた新しい試みがさまざまな方向に、場合によっては国境を越えて拡散していったとする。この点で、新しい音楽が古い音楽を淘汰し、その都度、その方向性についての理由付けが行なわれるメインストリームやそれに類似する音楽シーンと異なる、とするのである。しかし、この論文が出版された1991年には、これらのシーンから生まれた音楽がメインストリームに取り入れられており、やがて一大ジャンルとしてそれまで主流だったポップ音楽を淘汰していくことになる。

以下、80年代北アメリカのハードコア/オルタナティブシーンのうち、90年代以降まで影響を残したと考えられるものを中心に取り上げる。

レオソーム ガードマン ドアマット おぜいゆ ウォッチ チュール ハシェマ タンギ シラン 手をつなご チュウゴ ブルーボ マンダ 散歩道 アカマツ 弾丸ファ スキーマ ロック マコロ 陽炎 長徳国内 セーフ ヒストン マナー プリーナ ルベリー レポオペ ゲエゲア ナンセン ジーンズ プレパレ マスト チェリー ペック ふき小松 トモグラ ショート とうげ シボレー トランジス じくど タッピ そうあん クーペ カタカナ ドラセナ シンバル ぞうげ すうぃ? プログ


2009年03月23日

廃車 (鉄道)

鉄道車両における廃車(はいしゃ)とは、鉄道車両の本来の用途における使用(人や物を運ぶこと)をやめ、車籍を抹消して鉄道事業者の資産でなくし、廃棄すること、またはそうされた車両のことである。

廃車の原因 [編集]
ある鉄道車両が廃車となる理由には、大きく分けて次の3種類がある。

経年廃車
用途(余剰)廃車
事故(天災によるものも含む)廃車

経年廃車 [編集]
鉄道車両は、整備や手入れを多額の費用や時間をかけて行えば、30年あるいはそれ以上の期間使用することも可能である。長期間使用された車両の一例としては、戦前のベルリンオリンピック時に製造されたSバーン用電車がドイツ分裂・東西統一を経て21世紀初頭まで運行していた例や、西日本旅客鉄道(JR西日本)小野田線において運用離脱する2003年まで70年間にわたって使用されていたクモハ42形電車などが挙げられる。また、経年が100年を超える蒸気機関車が、車籍のない遊戯施設扱いであるものの動態保存され、客車を牽いて運転されている例もある。しかし、これらは非常に稀であり、大抵の車両は早くて10年前後、遅くとも30〜40年(新幹線は15〜20年)で役目を終えている。
ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク

これは以下のような理由による:

技術的要因
技術の向上により時代に合わなくなった理由で廃車することである。製造された当時は最新鋭の技術を使っていたとしても、技術革新によりいずれ陳腐化することは避けられない。また、新たに開発された保安装置を設置することができなくなることもある。鉄道車両は、長期間に亘って法定の保守点検を行うため、新造費用だけでなくランニングコストが多く掛かる。このため、保守コストを低減できるように設計されたより新しい車両に置き換える方がトータルコストを低減できることがあるため、寿命に達していなくても廃車されることがある。あまりにも古い車両の場合、交換用の部品が製造中止になってしまい、修理が行えなくなったために、やむなく廃車になる場合もある。先述の42系の場合、001号を走らせるため、稼動中の006号を廃車して部品取り用にした。
老朽化
鉄道車両は使い続ければ老朽化が進んでいく。各種機器の老朽化による動作不良が事故を招くこともあるので、ある程度の期間使用した時点で廃車となる。特に新幹線車両では在来線よりも高い安全水準が要求されることや、高速・長距離走行のため各部の摩耗や傷みが在来線車両より早く進行するといった理由から、車両の寿命が15年程度と短くなっている。
日本では、鉄道車両の減価償却期間は大蔵省令により定められており[1]電車は13年である。つまり、少なくとも13年間使用することを前提に設計されている。ただし、これを基準に設計された車両は東京都交通局(都電)8000形電車、東日本旅客鉄道(JR東日本)209系電車など例は少なく[2]、大抵は設計上の耐用年数を20〜30年程度とし、内装や車体、機器等の更新を行いながら法定耐用年数の13年を超えて使用される。しかし、この長さも事業者の事情によってまちまちであり、老朽化・陳腐化したものを短期間のうちに一気に置き換えてしまう事業者もあれば、これと同じものを更新しながら相当長期間にわたって使い続ける(使い続けなければならない)事業者もある。
この設計上の耐用年数も時代によって変遷しており、一般に1950年代前半までに製造された車両は頑丈に造られており、軽量構造が一般化した1950年代後半以降に製造された車両に比べて、同一経年であっても一般に老朽化の度合いは小さい。例えば、1940年代後半から製造された国鉄スハ43系客車が、後継車として製造された軽量構造のナハ10系客車が老朽化により全廃された後も大量に残存した事例がある。それゆえ、その後に製造された車両は、行き過ぎた軽量構造を改善し、やや頑丈な構造として重量も増加している。また、アルミ合金車とオールステンレス車は、普通鋼製の車両に比べて錆の発生による劣化が少なく、塗装の省略等による保守上のメリットも大きいため、車体デザインの陳腐化などさえ考慮しなければ、半永久的に使用可能である。
また、特殊な構造を持つ車両や極端に性能の異なる車両(例えば試作車や、何らかの理由で少数しか製造されなかったグループ)はその特殊さゆえ保守に手間がかかったり、交換部品のコストが嵩んだりするため、特に多数の車両を運用する大手鉄道事業者では早期の整理対象となりやすい。多少古い車両であったとしても、数がまとまっていれば量産効果により維持コストは削減可能であるし、性能が揃っていれば運転上の特殊な取り扱いもしなくて済むのである。極端な例としては0系新幹線のように、老朽化した車両を新造した同系列によって置き換えるといったことも行われている。
旧型車から下回りや機器を流用した車体新製車は、流用機器の老朽化から完全新造車に比べて短い期間のうちに新造した車体ごと廃棄されてしまう例も多い。流用機器の老朽化や陳腐化が理由であるが、コストなどの保守面等でのデメリットが更新当時の想定以上に急速に表面化するなどの理由によって、早期に廃車されてしまう例も見られる。一方で、老朽化の進んだ機器を新造あるいは余剰のものより新しいものと交換して、経年の浅い車体がさらに活用される例も少なくない。
特殊なもの(他と違うもの)は、一般に短命である。

用途(余剰)廃車 [編集]

環境の変化による廃車 [編集]
鉄道車両を取り巻く輸送環境は廃車となった車両の走る路線についての内部的な変化のみならず、その車両の走る路線そのものとは何の関係もない外部的要因による変化など様々な理由で変化する。

前者の内部的な変化としては、まず運用体系の変化や輸送力増強などに伴う編成の組み換えに伴う余剰車両の廃車が挙げられる。

例えば小田急電鉄旧3000形「SE車」を「SSE」化した(8両×4本を5両×6本に組み替えた)際、余剰となった2両が廃車となった。

また京成電鉄AE形電車においても、6連×7本から8連×5本に組み替えたため余剰となった2両が廃車となり、3400形電車の更新改造に機器を供出している。

名古屋鉄道1000系電車に至っては、車齢が若い(10〜20年程度)ながらも特急列車の運営方針の転換(一部特別車化)によって運用が減少し、余剰廃車となった車両はその主要機器を新5000系に供出することとなった。また、余剰となった1600系の4両(ク1600)は、転用先、譲渡先が見つからなかったために車齢9年と短命に終わった。

JR東日本211系電車は、高崎線でのグリーン車の運用に先立ち、編成の組み換えによって転籍してきたグリーン車を組み込む事になり、これによって編成から捻出された付随車(サハ211)が34両余剰となり、211系としては初の廃車となった。

大阪市交通局10系電車は、10両編成化する時は新20系が製造を開始していた為、車齢が古い01〜03編成を分割・改造及び電装解除の末他編成に組み込み、残った4両は余剰廃車となった。

阪急電鉄6300系は、使いにくさの問題から2007年度から休車していた2本のうち8連1本を、9300系増備車に伴い廃車され、同系列初の廃車となった。しかし、そのうちの1両は現在も留置されている。

また、新型車両を投入した後にそれまでの車両を廃車にせず他の線区へ転出しその線区の旧形式車を淘汰させることがある。この時には編成は適宜組み替えられるが、この組み替えた結果として余った車両が廃車となることがある。

編成組み換えによって余剰となるのは大抵付随車であり、転用する場合は電装(モーターなどを取り付け、動力車に改造すること)などが必要となり、莫大なコストが掛かる。ただし、転属や増発による短編成化で制御車(先頭車)が不足する場合には、改造されて制御車になる場合もある。457系電車におけるグリーン車や165系電車などからの改造車、80系電車・205系電車・485系電車などの例がある。

また営団地下鉄東西線乗り入れ専用車であった国鉄301系電車の場合、営団との協定でJR側の乗り入れ数が減少したために余剰となった1編成が廃車となった。さらにこの形式は、それ以前に営団に合わせた10連化のため、7連8本を10連5本に組み替えた際、余剰6両が廃車となった。

他にも廃線や列車廃止の影響による廃車もある。

信越本線の横川〜軽井沢間の碓氷峠の急勾配区間の専用補助機関車として使用された国鉄EF63形電気機関車は、長野新幹線開業と引き換えの碓氷峠区間の在来線廃止に伴い全車廃車となっている。碓氷峠では先代の国鉄ED42形電気機関車も粘着運転への切り換えに伴うアプト式運転廃止で全車廃車となっており、この区間では路線切り換えによる車両の用途廃止による廃車が2代続いたことになる。

長野電鉄10系電車は、木島線の廃線の影響で余剰となり、普通列車の運用が3500・3600系電車に車種統一できることから3500・3600系より車齢が短いながらも廃車となった。

後者の外部的な変化としては、他社他路線もしくは他車両・新しい規制や法令の影響などで廃車された例がある。

例えば東京都電6000形6152号車は都電全盛時代を伝える唯一の車両として、またライトの形状から「一球さん」という愛称で保存車として親しまれていたが、京福電気鉄道越前本線列車衝突事故が起きた際にその事故車両についてブレーキ機構が1系統しかなく、これの故障によって停止不能となったことが事故原因として明らかとなり、同様のブレーキシステムであった6152号も運転に不安があるとして休車となりその後廃車された。

また、小田急10000形電車(ロマンスカーHiSE)は交通バリアフリー法施行に伴い鉄道車両にもバリアフリー対策が求められる中で、特徴でもあったハイデッカー構造のためにバリアフリー対応工事が困難であることが理由の一つとなり、より古い電車である7000形電車(ロマンスカーLSE)よりも早く淘汰されることとなった(長野電鉄へ譲渡された2編成)。

横浜市営地下鉄ブルーラインに2006年まで運用された2000形では3000A・N・R形とドアの幅が異なり2007年より開始予定のホームドアによるワンマン運転に対応できず、車体をすべて解体・廃棄せざるを得なくなった。なお第16編成以外の台車や空気圧縮機・ブレーキ装置等の一部機器は3000S形へ流用された(この辺りの事情は東京メトロ07系が東京メトロ東西線へ転属した理由と同様。詳しくは当該項目を参照)。

新幹線においては1985年に登場した100系は0系と基本性能は変わらない。その為、300系や500系等の270〜300km/h超の車両の投入によるスピードアップに対応できず、車両自体の寿命を迎える前に大量淘汰を受けることとなった。100系の最高速度は275km/hであるが、騒音基準を満たすことができなかった事も要因の一つである。

また、食堂車はその外部的要因と内部的要因による影響を複合的に受けた例の一つである。

まず、1972年の北陸トンネル火災事故によって国鉄10系客車の食堂車火災に対する安全性が問われ(外部的要因)、早期に全廃された。また、国鉄末期になると、新幹線網の発達や自動車の普及による特急電車の短距離化・短編成化の傾向の影響を受けたり(内部的要因)、さらに近年の旅行形態の多様化の影響を受けるなどして(外部的要因)、昼行特急列車の食堂車の多くが廃止され、車両の大部分は余剰であるとして廃車となった。

新幹線においても、国鉄期の車両には食堂車が一般的であったのに対して現在の車両には連結されていないことから、この傾向を伺うこともできる。
なお、廃止となった昼行特急列車の食堂車のうち、廃車を免れた少数の例として国鉄485系電車において雷鳥の食堂車を廃止する代わりに和風電車「だんらん」に改造した例がある。この車両は後のスーパー雷鳥新設時、ラウンジ付グリーン車に再改造されている。JRに継承した一部は国鉄24系客車(北斗星やトワイライトエクスプレス)の食堂車に改造された。
珍しい例としては、新幹線1000形電車の「解体設備の運転試験のために廃車」といったものや、国鉄DD54形ディーゼル機関車や阪神3801形電車第1編成のように「あまりにも故障や事故が多発し過ぎて廃車」といったものなどがある(両形式とも約12年と全車法定耐用年数に達する前に廃車された)。

2009年03月07日

ウィチタ (重巡洋艦)

ウィチタ (USS Wichita, CA-45) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。艦名はカンザス州ウィチタに因む。同型艦はない。

ウィチタは1935年10月28日にフィラデルフィア海軍造船所で起工し、1937年11月16日にウィリアム・F・ワイジスター夫人(連邦取引委員会議長W・A・アイレスの娘)によって命名、進水した。1939年2月16日に初代艦長タデウス・A・トムソン大佐の指揮下就役した。

艤装完了後、ウィチタはメキシコ湾へ向けて出航し、その後4月20日にテキサス州サンジャシントに到着、サンジャシント戦跡記念碑と戦争遺物博物館での献納、記念式典に参加した。10日後、ウィチタ市議会議長から銀製食器一式を受け取る。5月1日にヒューストンを出航、整調航海を行いヴァージン諸島、キューバ、バハマを訪れ、その後北に向かいフィラデルフィア海軍造船所で整調後の補修を行った。

1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発したが、ウィチタは信頼性試験を継続していた。およそ一ヶ月後の9月25日、ウィチタは大西洋艦隊の第7巡洋艦隊に配属され、フィラデルフィアを出航しヴァージニア岬を経由、二日後ハンプトン・ローズに到着した。

ウィチタは10月4日にハンプトン・ローズを出航、ヴィンセンス(USS Vincennes, CA-44)に代わって哨戒任務に従事する。同任務を9日まで継続した後ハンプトン・ローズに戻り、12日にはノーフォーク海軍工廠に入り12月1日まで修理を行った。

3日後ウィチタはキューバに向けて出航し、8日にグアンタナモ湾に到着する。艦長のトムソン大佐は新たに構成されたカリブ海偵察隊の任務を命じた。同部隊はウィチタ、ヴィンセンスの巡洋艦に加えてボリー(USS Borie, DD-215)、ブルーム(USS Broome, DD-210)、ローレンス(USS Lawrence, DD-250)、キング(USS King, DD-242)、トラクスタン(USS Truxtun, DD-229)および偵察機部隊 VP-33、VP-51 から構成された。部隊はグアンタナモ湾およびプエルトリコのサンフアンを拠点として活動した。

部隊はグアンタナモ湾で一週間近く訓練を行い、クリスマスの4日前にウィチタはキューバ水域を出発、プエルトリコ経由で二日後サンフアンに到着する。その後ヴァージン諸島のセントトーマスを12月28、29日に訪れ、その後1940年1月2日までサンフアンに停泊する。

3日にグアンタナモ湾へ戻ると、8日から訓練を行いその後24日に新たに構成されたアンティル諸島分遣隊の旗艦としてキューバ水域を離れる。部隊は二日後に分離され、ウィチタは第82駆逐艦隊と共に1月26日から30日までウィレムスタッドを訪れる。その後ウィチタはヴィンセンス率いる部隊と再合流し、プエルトリコ水域へ戻る。

ウィチタはグアンタナモ湾からプエルトリコのクレブラ島にかけて訓練を行い、2月後半にハンプトン・ローズへ向かう。ウィチタは3月4日にノーフォークに到着し、同所で5日間停泊、その後フィラデルフィアに向かう。ノーフォークには3月末に帰還し、その後はハンプトン・ローズからの訓練を春まで行う。

南アメリカで
6月にはいるとウィチタは南アメリカ水域でドイツのプロパガンダに対抗してアメリカの「良き隣人」たちへの「旗幟を鮮明にする」役割を担うことになる。1940年5月にドイツ軍がフランスへの電撃戦を行っている間、アメリカ合衆国のウルグアイ担当大臣エドウィン・C・ウィルソンはモンテビデオで広がるナチスのプロパガンダの様子を報告した。大統領と国務省は西半球に影響を広げるドイツに対して懸念するウィルソンの報告を重視した。

重巡洋艦クインシー (USS Quincy, CA-39) が6月20日にモンテビデオに派遣され、その10日後には第7巡洋艦隊司令A・C・ピケンズ海軍少将が座乗したウィチタがリオデジャネイロ経由でクインシーと合流した。

ウィチタとクインシーは「アメリカ軍の強さと行動範囲を知らしめる」ために7月3日まで巡航を続けた。両艦はリオ・グランデ・デ・ソル、サントス市、リオデジャネイロ、バイーア州、ペルナンブーコ州を訪れ、8月23日にモンテビデオに戻る。その後はアルゼンチンのブエノスアイレスと再びリオデジャネイロを訪れ、9月22日にハンプトン・ローズに帰還した。

ウィチタはノーフォークに一週間停泊した後ニューヨークに向かい、9月30日に到着する。続く三ヶ月にわたってウィチタは主にヴァージニア岬沖の南部訓練海域で海軍兵学校の予備役生の訓練及び砲術訓練を行った。
マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ

戦後
ウィチタはその後間もなく日本占領部隊に加わる。中城湾を出航し9月10日に長崎に到着、翌日第55.7任務群へ配属される。長崎での停泊中にウィチタは日本軍により長期間拘束されていた戦時捕虜およそ10,000名を乗艦させ、本国に送還した。

ウィチタは25日に佐世保に到着し、4日間停泊した後29日に長崎に戻る。その後再び佐世保に向かい、停泊中の10月9日から11日の間に台風に遭遇する。ウィチタは台風による損害を被ることはなかった。

佐世保での間にウィチタは日本軍の無条件降伏に従い港湾施設及び船舶を検査した。その後11月5日に本国へ帰還する兵士の輸送命令を受ける。ウィチタは東京湾で燃料補給を行った後、サンフランシスコに向かい1945年11月24日に到着した。

2日後にメア・アイランド海軍造船所の乾ドック入りし、補修とマジック・カーペット作戦のための改修が行われた。12月1日に補修は完了し6日にハワイに向けて出航、12日に真珠湾に到着し、その後マリアナ諸島に向かう。サイパンで帰還兵を乗艦させると1946年1月12日にサンフランシスコに到着した。

サンフランシスコを1月27日に出航すると、2月5日から9日にかけてパナマ運河地帯を通過し14日にフィラデルフィアに到着する。その後第16艦隊に配属され、ウィチタは1946年7月15日に予備役となる。1947年2月3日にウィチタは退役し、フィラデルフィアで保管された。その後1959年3月1日に除籍され、同年の8月14日にユニオン・ミネラルズ・アンド・アロイ社にスクラップとして売却された。

2009年02月19日

ディファイアント級/ミランダ級

ディファイアント級(-きゅう、Defiant class)は、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する宇宙艦隊保有の宇宙船のクラス名の一つである。なお、defiantとは英語で「挑戦的な」という意味。
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ

宇宙艦隊は惑星連邦防衛という軍事的機能を有してはいるが、平時は外交や未知宙域の探査、科学調査などの任務を行っているということもあり、戦闘目的に特化した宇宙船を開発していなかった。しかし、ボーグの脅威が増大したことを受け、2366年よりユートピア・プラニシア・フリート・ヤードで新兵器の開発プロジェクトが始まった(プロジェクトには後のディープ・スペース・ナイン司令官ベンジャミン・シスコも参加していた)。ディファイアント級はこのプロジェクトによって設計されたクラスで、宇宙艦隊初の戦艦として配属される予定であったが、ボーグの弱体化によって脅威が減ったことや、エンジンに設計上の欠陥があることなどを受け、計画は見送られることとなった。しかし、2370年代に入ってから増大しはじめたドミニオンの脅威に対抗するために、生産、投入が開始されることになったのである。ディファイアント級は護衛艦(原作ではfighter(戦闘機)と表現されている。いわゆるジェット戦闘機などとは趣が異なるが、深宇宙探査を目的とせず、宇宙基地や惑星から遠く離れての遠距離航行などを考慮していない事からも、この呼称がもっとも適当であろう)に分類されており、宇宙艦隊初の戦闘を主目的とした宇宙船である。そのため、他のクラスの船にみられる科学ラボなどの設備を持っておらず艦長室さえもないが、簡易な居住設備として二段ベッドがある。

ディファイアント級宇宙船一覧
U.S.S.ヴァリアント(U.S.S.Valiant、NCC-74210)
英語で「(無謀なまでに)勇敢な」という意味。2374年、宇宙艦隊アカデミー候補生のエリート集団であるレッド・スクワッド(Red Squad)の訓練航行中にドミニオンの攻撃を受け喪失。生存者はジェイク・シスコ、ノーグ、士官候補生のドリアン・コリンズの3人のみであった。(DS9『過信』(Valiant))。
U.S.S.サン・パウロ(U.S.S.São Paulo、NCC-75633)
ブラジルのサンパウロ市から。大破喪失したU.S.S.ディファイアントの代わりにディープ・スペース・ナインに配属され、後にU.S.S.ディファイアントと改称されることになった。
U.S.S.ディファイアント(U.S.S.Defiant、NX-74205)
ディファイアント級の一番艦

ミランダ級(-きゅう、Miranda class)は、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』シリーズに登場する宇宙艦隊保有の架空の宇宙船のクラス名の一つである。

初出は『スタートレックII カーンの逆襲』のU.S.S.リライアントで、『スタートレック』で初めて見られるコンスティテューション級以外の宇宙艦隊の船である。少なくとも23世紀後半から使用されているが、エクセルシオール級やオーベルト級と同様に24世紀後半になってもいまだよく運用されているところを見ることができる。

宇宙艦隊の船によくみられる紡錘形の機関部(第2船体)がないところが特徴で、円盤状の船体の後部の両脇に、下向きに1対のワープナセルが取りつけられている。

また、ミランダ級には3つの異なる形状のものが確認される。1番目のタイプは、船体の後方上部に取りつけられたアーチ状の構造物を持つもので、その中央部に光子魚雷の格納庫と発射管を、両脇にフェイザーを装備している。2番目のタイプは、そのアーチ状の構造物を持たないものである。3番目のタイプは、アーチ状の構造物は持たないが、ふたつの構造物(用途不明)を船体の両脇に持つものである。

類型級であるソユーズ級 (Soyuz class) は、U.S.S.ボーズマン (U.S.S.Bozeman, NCC-1941) が、TNG「恐怖の宇宙時間連続体」(Cause and Effect)に登場した。こちらが運用されていたのは23世紀までである。撮影用模型は、上記のU.S.S.リライアントを流用し、改造して使っていた。

なお、クラス名はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の登場人物、ミランダに由来している。

ミランダ級宇宙船一覧
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-1867)
2286年、航行中に正体不明の探査船によってシステムを不能にされる(『スタートレックIV 故郷への長い道』)。
U.S.S.サラトガ (U.S.S.Saratoga, NCC-31911)
ウルフ359の戦いに参加、喪失(DS9「聖なる神殿の謎」(Emissary))。ベンジャミン・シスコが副長を務めていた。
U.S.S.シカー (U.S.S.ShirKahr, NCC-31905)
バルカンの都市のひとつであるシカーから。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームを攻撃中に、攻撃を受け喪失(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.シタック (U.S.S.Sitak, NCC-31859)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.テンアンモン (U.S.S.Tian An Men, NCC-21832)
中国の天安門広場から。2368年、遮蔽装置を使用したロミュラン船をスキャンするためのタキオン探知網形成に参加(TNG「クリンゴン帝国の危機(後編)」(Redemption, Part II))。2373年にカーデシアとの国境付近で消息を絶つ(カーデシアの攻撃を受け破壊されたものと推定される。DS9「プレゼント大作戦」(In the Cards))。
U.S.S.トライアル (U.S.S.Trial, NCC-1948)
2372年、ディープ・スペース・ナインがクリンゴンの艦隊による攻撃を受けた際、応援に駆けつけたハスター提督指揮の6隻からなる艦隊のうちの1隻(DS9「クリンゴンの暴挙(後編)」(The Way of the Warrior, Part II))。
U.S.S.ノーチラス (U.S.S.Nautilus, NCC-31910)
ジュール・ヴェルヌの小説に登場する潜水艦ノーチラス号から。2374年、チントカにあるドミニオンの無人軌道武器プラットフォームへの攻撃に参加(DS9「決意の代償」(Tears of the Prophets))。
U.S.S.ブラッテン (U.S.S.Brattain, NCC-21166)
アメリカの物理学者ウォルター・ブラッテンから。2367年、乗組員が次々と発狂を起こし、1人を除く全員が死亡する(TNG「謎めいた狂気」(Night Terrors))。
U.S.S.ヘリン (U.S.S.Helin, NCC-1692)
アメリカの天文学者エリナー・F・ヘリンから。2293年、ジェームズ・カークとレナード・マッコイを救出する試みに参加したかもしれない船の一つ(『スタートレックVI 未知の世界』)。
U.S.S.マジェスティック (U.S.S.Majestic, NCC-31060)
2374年、ディープ・スペース・ナインの奪還作戦中にカーデシア船の攻撃を受け喪失(DS9「ディープスペース・ナイン奪還作戦(後編)」(Sacrifice of Angels))。
U.S.S.ラントリー (U.S.S.Lantree, NCC-1837)
2293年、セクター22858のコロニーへ物資を輸送した(『スタートレックVI 未知の世界』)。2365年、船内に急速に老化を促進する抗体が入りこみ、乗組員が全滅。抗体拡散を防止するためU.S.S.エンタープライズDによって破壊された(TNG「D.N.A.」(Unnatural Selection))。
U.S.S.リライアント (U.S.S.Reliant, NCC-1864)
2285年、ジェネシス計画に用いるための惑星を探索中に、セティ・アルファ5号星付近でカーンらにより乗っ取られる。U.S.S.エンタープライズ NCC-1701と交戦し、破壊される(『スタートレックII カーンの逆襲』)。

2009年02月03日

伏見宮(ふしみのみや)

伏見宮(ふしみのみや)は、日本の宮家の一つ。四世襲親王家の一つ。
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ

菊の花を裏から見た様子を描いた裏菊を家紋とし、家紋同様に天皇家とは深い繋がりのある宮家であった。

北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王(よしひと、なかひと)が始祖。明治維新後に創設された宮家は、ほとんど伏見宮家の系統である。現在の天皇家も伏見宮家の系統であり、伏見宮貞成親王の男系子孫である。元来、伏見宮家は持明院統の嫡流にあたるが、栄仁親王の皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられる。

伏見宮の宮号は、宮家の所領・伏見御領にちなんだものである。栄仁親王の子の3代貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の子の4代貞常親王は、後花園天皇(貞成親王の子で貞常親王の兄)から、永世、伏見殿と称することを勅許され、以後、代々、伏見宮と名乗るようになった。現皇室の 本宗にあたると考えられたためか、他の宮家が次々断絶していく中、どの時代にも、常に大切にされ、守られてきた[要出典]と認められる。

幕末・明治維新の時の19代貞敬親王および20代・23代邦家親王は子女に恵まれ、貞敬親王からは、梨本宮、邦家親王からは、山階宮、久邇宮、華頂宮、小松宮、北白川宮、東伏見宮がそれぞれ創設された。

明治維新後は、邦家親王の跡を継いだ24代貞愛親王は、元帥、陸軍大将に累進。明治天皇および大正天皇の御信任も厚く、皇族の重鎮として、大日本農会、在郷軍人会総裁を歴任した。

貞愛親王の跡を継いだのが、25代博恭王である。博恭王は当初、華頂宮家を継承していたが、伏見宮家の継嗣とされていた弟の邦芳王が病弱のため、伏見宮に復帰して継嗣となった。元帥・海軍大将・軍令部総長として昭和海軍の実力者であった。博恭王は、昭和21年8月16日薨去し、博恭王の第一王子の博義王は父よりも早く薨去していたので、博義王の第一王子である博明王が26代となった。

博明王は昭和22年10月14日の皇籍離脱により、伏見氏を名乗る。

明治初期以降の伏見宮邸の跡地は、現在はホテルニューオータニとなっており、庭園にその名残がある。なおこの場所には、はじめ加藤清正の下屋敷があり、後には井伊家中屋敷があった。

江戸時代の伏見宮邸
江戸時代の伏見宮家は京都御所周辺に二ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、同志社女子大学の敷地の一部となっている。周囲には桂宮家と五摂家の二条家と近衛家の邸宅があった。

御所東部(出町北鴨口)の邸宅跡地付近には、「妙音弁財天」を祀る伏見宮家の鎮守社が今も残る。

歴代当主
栄仁親王(北朝第3代崇光天皇皇子)
治仁王
貞成親王(後花園天皇父、後崇光太上天皇)
貞常親王
邦高親王
貞敦親王
邦輔親王
貞康親王
邦房親王
貞清親王
邦尚親王
邦道親王
貞致親王
邦永親王
貞建親王
邦忠親王
貞行親王(桃園天皇第2皇子)
邦頼親王(15代貞建親王王子)
貞敬親王
邦家親王※
貞教親王
貞愛親王(元帥陸軍大将)
博恭王(元帥海軍大将、軍令部総長)
博明王(皇籍離脱、伏見氏を名乗る)
※正確には、邦家親王→貞教親王→貞愛親王→邦家親王(再継承)→貞愛親王(再継承)→博恭王という継承が行われた。そのため、系図によっては邦家親王を20代・23代、貞愛親王を22代・24代、博恭王を25代と数えているものもある。

また11代邦尚親王については、その父である10代貞清親王よりも7か月早く薨去しているので歴代当主に数えない説もある。 同様に24代博明王の父の博義王については、その父である23代博恭王よりも早く薨去しているが、博義王については歴代当主に数えていない資料が多い。

系図
崇光天皇 (1)栄仁親王 (2)治仁王 後花園天皇 後土御門天皇 後柏原天皇 後奈良天皇 正親町天皇

(3)貞成親王
(後崇光院) (4)貞常親王 (5)邦高親王 (6)貞敦親王 (7)邦輔親王 (8)貞康親王

(9)邦房親王

誠仁親王 後陽成天皇 後水尾天皇 霊元天皇 東山天皇 中御門天皇

(10)貞清親王 (11)邦尚親王 (閑院宮1)直仁親王

(12)邦道親王 (16)邦忠親王

(13)貞致親王 (14)邦永親王 (15)貞建親王 (18)邦頼親王 (19)貞敬親王

桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇

(17)貞行親王

(閑院宮2)典仁親王 (閑院宮3)美仁親王 (閑院宮4)孝仁親王 (閑院宮5)愛仁親王

光格天皇 仁孝天皇 孝明天皇 明治天皇

(20/23)邦家親王 (山階宮1)晃親王 (梨本宮2/山階宮2)
菊麿王 (山階宮3)武彦王
(皇籍離脱)

(梨本宮1)守脩親王 (久邇宮1)朝彦親王 (賀陽宮1)邦憲王 (賀陽宮2)恒憲王
(皇籍離脱)

(久邇宮2)邦彦王 (久邇宮3)朝融王
(皇籍離脱)

(梨本宮3)守正王 良子女王
(香淳皇后)

多嘉王

(21)貞教親王 (朝香宮)鳩彦王
(皇籍離脱)

(東久邇宮)稔彦王
(皇籍離脱)

小松宮彰仁親王 (竹田宮1)恒久王 (竹田宮2)恒徳王
(皇籍離脱)

(北白川宮2)能久親王 (北白川宮3)成久王 (北白川宮4)永久王 (北白川宮5)道久王
(皇籍離脱)

小松輝久

(華頂宮1)博経親王 (華頂宮2)博厚親王

(北白川宮1)智成親王 (25/華頂宮3)
博恭王 博義王 (26)博明王
(皇籍離脱)

(22/24)貞愛親王 邦芳王 (華頂宮4)
博忠王

(閑院宮6)載仁親王 (閑院宮7)春仁王
(皇籍離脱) 華頂博信

(東伏見宮)依仁親王 伏見博英

2009年01月20日

方便法輪

方便法輪。方便とは、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する柔軟な心構えをいう。教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。

只管打坐(しかんたざ)
ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。意識を捨てて無意識下において坐禅する[20]、坐禅そのものになりきることを意味する。いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する。この手法によって初心者でもより深い禅定の境地を容易に体験可能であるとされる。ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばず、そのために初心者向けの方便として只管打坐[21]・修証一如こそが禅宗の極意であるということが言われる。坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。
公案禅(こうあんぜん)
達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。無理な想像は妄想となって理解に歪みを生じ、自ら生み出した曲解に妨げられてますます悟りから遠のくという事態は、昔から多くの師家を悩ませてきた。経典を学ぶにしても、学び手に必要なものはまず悟りの体験である。悟りというものは自分の心で自分の心を確認し、自分の心で自分の心を理解するものである。他人に頼って何かを明らかにするとか、自分以外の何かを利用して体得するようなものではない。従って、悟るためには何よりもまず坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である。こうした問題意識から、思考癖のある聡い修行者に坐禅を実践させるために、禅師たちが考え出した方法が公案禅である。修行者に公案を与え、行住坐臥つねに公案の答えを考えさせるのである。
公案(こうあん)
公案は直に悟りの境地を指し示したものであり、ひらめきと一体化した言い表せない感情的なものである。心がけがよくなく、このままではまちがった方向に進むおそれのある修行者[23]に対して、師家が薬のような意味合いで修行者に授ける。内容は、昔の高僧の言葉を使うこともあれば、即興で作られることもある。公案を与えられた修行者は、その言葉がどのような本意から創造されたかを正しく悟って、師家の前で心を以て回答することを要求される。公案の多くが自己矛盾的文体を為しており、そのまま意味を理解しようとしても論理的に破綻する場合が多い。公案の答えは常識的な思考の届かないところにあり、自己を消し去ることで矛盾を解消したり、矛盾を止揚して高次の段階で統一したものである場合が多い。そういった答えに至る過程に禅の極意が含まれているとし、修行者を正しい悟りに導くための工夫の一つとされる。ただし、このような学習を捨てて坐禅させるという方法は、師家の善良な監督下にあって庇護を受けることができる出家の僧侶に向けたものであり、在家の信者は坐禅と学習の両方を行う必要があるとされる。
内観(ないかん)
すぎやま バイオ ファイト チグラフィ 寛和 トリタン ビストロ クウェート スペシャル トップス スラバ フェン サイネ 赤ひげ ピペット スクワレ ミイアエラ スイッチ ソース ルーター シティー ハイオネロ メキシコ メグマ オルゴール フーファ タンデム フェース 冬の南風 セイフ バイポ ブラウニー フランネ スマス ギャンブル おーたむ バース 古都の ケワキ ルーイク レット リングアウ ド小法師 ズンイン レングス バック テクニ スラブ 見返り NO1ラン

禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で安穏であれば仏道を求めることが困難だからである。釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するようなめでたい事は、少しばかりの艱難辛苦なしには得られるものではないという覚悟が必要であるとされる。
とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。
二入四行
達磨が伝えたとされる二つの真理への至り方と、四つの実践方法。悟りに至る方法は数多くあるが、それらはすべてこの二つに要約されるとする。

霊魂の否定
禅宗では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。

禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である。

もし悟った禅僧が、心身は一如であり肉体も精神も不滅であるというならば、これは仏性を直指した奥の深い説法であるといえる。